人生とは切り口を見いだすことである。
すなわち意味を探す旅だ。
間違う事だってある。
それでも自分で物事を切り取り、判断し、進んでいかないと行けない。
人生を振り返るとそこにあるのは独自に切り開いて来た、その跡なんだろうと思う。
恥じず、めげず、果敢に物事を見いだしていきたい。
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(表題)が、問われている時代だと思う。
今日は正味1時間、久々に活発な議論をして、未だその余韻があるので、頭の整理のためにも、ざざざーっと書いてみようと思う。
(おそらく皆さん既知のコトばっかりかもしれないがご容赦いただきたい所です)
振り返れば今日の議論の内容は、物作りに置ける姿勢。
概ね、「マーケット・イン」か「プロダクト・アウト」の話だったと思う。
でも、自分が一番引っかかったのは、「スクラップ&ビルドで何が悪いのか。それで商品が選ばれるのであれば良いじゃないか」という話。
「マーケット・イン」とは、ご存知の通り、企業が商品開発・生産・販売活動を行ううえで、顧客や購買者の要望・要求・ニーズを理解して、ユーザーが求めているものを求めている数量だけ提供していこうという経営姿勢のこと。
簡単に言えば、“売れるものだけを作って提供する方法”といえる。
一方で、「プロダクト・アウト」とは、企業が商品開発や生産を行う上で、作り手の理論を優先させる方法のこと。
言うなれば、”作り手がいいと思うものを作る”ということですよね。
よく言われるのは、プロダクト・アウトは前時代的であり、昔の大量生産・大量消費がそれに当るということで、現代的であることは、むしろマーケット・インだという話。
確かに。
今日は正味1時間、久々に活発な議論をして、未だその余韻があるので、頭の整理のためにも、ざざざーっと書いてみようと思う。
(おそらく皆さん既知のコトばっかりかもしれないがご容赦いただきたい所です)
振り返れば今日の議論の内容は、物作りに置ける姿勢。
概ね、「マーケット・イン」か「プロダクト・アウト」の話だったと思う。
でも、自分が一番引っかかったのは、「スクラップ&ビルドで何が悪いのか。それで商品が選ばれるのであれば良いじゃないか」という話。
「マーケット・イン」とは、ご存知の通り、企業が商品開発・生産・販売活動を行ううえで、顧客や購買者の要望・要求・ニーズを理解して、ユーザーが求めているものを求めている数量だけ提供していこうという経営姿勢のこと。
簡単に言えば、“売れるものだけを作って提供する方法”といえる。
一方で、「プロダクト・アウト」とは、企業が商品開発や生産を行う上で、作り手の理論を優先させる方法のこと。
言うなれば、”作り手がいいと思うものを作る”ということですよね。
よく言われるのは、プロダクト・アウトは前時代的であり、昔の大量生産・大量消費がそれに当るということで、現代的であることは、むしろマーケット・インだという話。
確かに。
現在の商品開発の至る所に、顧客視点の発想が根付いており、実際に自分自身が消費者になるときに、「そうそう、こういうのが欲しかったのよ」と思わされるところあると思います。
個人的には、そうだなぁ。。インナーとして着るなら安くて満足できる品質の「ユニクロのインナー」で十分じゃん!とか、刃にくっつかないで欲しい「穴あき包丁」とか。(例えが悪い笑)
でも、色んな人が語っているように、プロダクト・アウトが悪い訳ではない。例えば、現代っぽいので言えば「iPhone」とか。考え方によっては「市場が既に求めていたから、マーケット・インだよ」と言う人もいるかもしれないが、それは今だから言えることで、当時世界に「画期的だ」って驚きを与えたってことから考えても、あまり市場が既に求めていたとは想像しづらい。こういう革新は、概して「気付いていない部分」=「潜在ニーズ」を捉まえて、提案して行くことから生まれているものたと思う。
でも、個人的には、今の時代は上記の2つさえ、前時代的だと思っていて。
正確に言えば、「マーケット・イン」「プロダクト・アウト」の議論をするだけでは足らなくて、そもそものマーケット(個人/法人含む)自体が、思慮に欠ける「大量消費を前提にしないようにする」必要が、現代にはあると思っています。
1966年、アメリカの経済学者ケネス・E・ボールディングが『来たるべき宇宙船地球号の経済学(The Economics of the Coming Spaceship Earth)』のタイトルで使用した「宇宙船地球号」。
言わんとすることは、「地球にあるものは有限であり、人間は循環する生態系やシステムの中にいることを理解するのだ」ということだったはず。
そういった、有限である地球に住まうことを前提にして、それを個人レベルの購買活動に立ち戻って考えれば、この表題にあるように「あなたが買い求めようとしているものは、環境に取って良いものですか?」ってのを考えて購買・消費行動をしないとならないということではないかと思うんです。
またそれは「個人」レベルでもそうだが、社会的な影響の大きい「法人」レベルでそうあるべき話だと思うんです。
話は戻って。
だとすれば。
スクラップ&ビルドを容認する言葉を、僕自身は容認できない。あまりにも「マーケット・イン」過ぎる話だと思うんです。今の時代は生産者側が「マーケット・イン」だろうと「プロダクト・アウト」だろうと、消費者側が環境に配慮した「エコロジー・イン」でなくてはならず、財布事情だけを考えた「エコノミー・アウト」では駄目だと思うんです。
とはいえ、だからってみんなで高いものを買おうとは言いません。それぞれの経済観念や事情はある。
日本というゆとりある成熟した社会だからそんなんが言えるのさ、という批判もごもっともだと思います。
だから、同じ価格で環境に配慮されたものと、同じ価格て配慮されていないものがあれば、同時に目につくのなら、最低限、環境に配慮されたものを買おうと。
世代感によっても違うのかもしれません。
少なくとも、節水の時代や、宇宙船地球号を知っている、現在20代後半から30代前半ぐらいは同じ考えの人が居てほしいなと思っています。
皆さんはどうお感じでしょうか。
個人的には、そうだなぁ。。インナーとして着るなら安くて満足できる品質の「ユニクロのインナー」で十分じゃん!とか、刃にくっつかないで欲しい「穴あき包丁」とか。(例えが悪い笑)
でも、色んな人が語っているように、プロダクト・アウトが悪い訳ではない。例えば、現代っぽいので言えば「iPhone」とか。考え方によっては「市場が既に求めていたから、マーケット・インだよ」と言う人もいるかもしれないが、それは今だから言えることで、当時世界に「画期的だ」って驚きを与えたってことから考えても、あまり市場が既に求めていたとは想像しづらい。こういう革新は、概して「気付いていない部分」=「潜在ニーズ」を捉まえて、提案して行くことから生まれているものたと思う。
でも、個人的には、今の時代は上記の2つさえ、前時代的だと思っていて。
正確に言えば、「マーケット・イン」「プロダクト・アウト」の議論をするだけでは足らなくて、そもそものマーケット(個人/法人含む)自体が、思慮に欠ける「大量消費を前提にしないようにする」必要が、現代にはあると思っています。
1966年、アメリカの経済学者ケネス・E・ボールディングが『来たるべき宇宙船地球号の経済学(The Economics of the Coming Spaceship Earth)』のタイトルで使用した「宇宙船地球号」。
言わんとすることは、「地球にあるものは有限であり、人間は循環する生態系やシステムの中にいることを理解するのだ」ということだったはず。
そういった、有限である地球に住まうことを前提にして、それを個人レベルの購買活動に立ち戻って考えれば、この表題にあるように「あなたが買い求めようとしているものは、環境に取って良いものですか?」ってのを考えて購買・消費行動をしないとならないということではないかと思うんです。
またそれは「個人」レベルでもそうだが、社会的な影響の大きい「法人」レベルでそうあるべき話だと思うんです。
話は戻って。
だとすれば。
スクラップ&ビルドを容認する言葉を、僕自身は容認できない。あまりにも「マーケット・イン」過ぎる話だと思うんです。今の時代は生産者側が「マーケット・イン」だろうと「プロダクト・アウト」だろうと、消費者側が環境に配慮した「エコロジー・イン」でなくてはならず、財布事情だけを考えた「エコノミー・アウト」では駄目だと思うんです。
とはいえ、だからってみんなで高いものを買おうとは言いません。それぞれの経済観念や事情はある。
日本というゆとりある成熟した社会だからそんなんが言えるのさ、という批判もごもっともだと思います。
だから、同じ価格で環境に配慮されたものと、同じ価格て配慮されていないものがあれば、同時に目につくのなら、最低限、環境に配慮されたものを買おうと。
世代感によっても違うのかもしれません。
少なくとも、節水の時代や、宇宙船地球号を知っている、現在20代後半から30代前半ぐらいは同じ考えの人が居てほしいなと思っています。
皆さんはどうお感じでしょうか。
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