人生とは切り口を見いだすことである。
すなわち意味を探す旅だ。
間違う事だってある。
それでも自分で物事を切り取り、判断し、進んでいかないと行けない。
人生を振り返るとそこにあるのは独自に切り開いて来た、その跡なんだろうと思う。
恥じず、めげず、果敢に物事を見いだしていきたい。
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今あんまり寄り道をしている場合ではないのかもしれないけれど。
さすがにちょっと衝撃的だったので。
昨日今日と、泊まり込みで作業をしてたため、さすがに疲れがたまってまして。
リビングのコタツで寝てたんですけど。どうにも見ずにはいられないテレビ番組がやってまして。
ヒロシマ。っていう再放送。
引用元:http://www.chugoku-np.co.jp/abom/2007/hiroshima_kiroku/2007060501.html
引用元:http://blog.chunyo.com/archives/2006/08/
引用元:http://www.news.janjan.jp/column/0608/0608169667/1.php?action=tree
なぜ、この時期にかはわからないけれど。こないだ筑紫さんが無くなってしまった事に関係があるのかもしれないけれど。
とにかく、すごかった。内容が。大きく言えば、考えさせられたのは、次の点かな。
国家と外交。戦争の惨さ及び今の時代。ジャーナリストの意義。
国家的な視点に立ち、今何をすべきか、何が正しいのかをみると。
当時のアメリカの大統領は、もちろん自国の幸せを優先していた訳で。自分たちから仕掛けないと、相手に何をされるかわからない。そして大きな国家力の対立関係のなか、自分たちの強さをアピールすることも価値としてあったんだろう。その結果、様々な意見を経て結局原爆投下に踏み切った。
当然日本でも、それくらいの感情でアメリカを見ていただろうし、力さえあればやりかねないかもしれなかったわけで。
でも、結果生み出された「リアル」は想像を絶する惨さだった。皮膚がただれる、あらゆるところから流血する。そんな姿を自分はこの生きた四半世紀のうちに目の当たりにした事はない。気付かないうちに作られた出来上がった都市で、成熟した都市で、楽しみだけを享受し、楽しく無ければ文句をたれ。また、それ以上の楽しみを生み出すために、今後社会をどうしたいと考える。切迫感なんてあったもんじゃない。「リアル」には感じ取れない。
映像の力、真実を後世に伝える事の意味・意義。
自分たちでは感じ得ない痛みをより痛々しく、生々しく伝える。理論的にも感情的にも訴えかける。そしてその表現力。どれをとっても、すごくできた番組としか言いようがない。そういうことに制作する力を注ぎ込めるということはなんて良い事なんだろう。
って、考えると、自分が今やっている論文を書く行為だって、一体何のためなのか。よく分かんなくなってくる。もちろん、それは早めに解除されて、今そんな事を考えている場合じゃないと、意識を取り戻すのだけれど。
人の向上心と言うべきか、飽くなき探究心と言うべきか、より良い幸せを求め続けるしっていう流れのなかで今を生きていはいるけれど。それが正しいとはわからないままに、それでも何もしないよりはした方が良いと思いながら生きてはいるけれど。精一杯何かをする事は真だと思い、できる限り死力を尽くして、誰かのためになると信じて、今を生きてるし、自分の力を精一杯使っているけれど。
そこで使う死力を尽くすだなんて言葉、あんな番組を見たあとじゃ、そう簡単には言葉に出せないや。なんて小さい、なんて欺瞞。そんな風に思えてくる。
でも、過去に学ぶ事は悪く無い。そこで何かを行動に起こす事は悪く無い。
過去から学び、いい価値観だけを自分に取り込んで、今を死力とは言わずとも、出来るだけ精一杯
頑張るしかない。そう思う。
季節外れだが、当時を想って今更ながらだけど、冥福を祈りたい。
さすがにちょっと衝撃的だったので。
昨日今日と、泊まり込みで作業をしてたため、さすがに疲れがたまってまして。
リビングのコタツで寝てたんですけど。どうにも見ずにはいられないテレビ番組がやってまして。
ヒロシマ。っていう再放送。
引用元:http://www.chugoku-np.co.jp/abom/2007/hiroshima_kiroku/2007060501.html
引用元:http://blog.chunyo.com/archives/2006/08/
引用元:http://www.news.janjan.jp/column/0608/0608169667/1.php?action=tree
なぜ、この時期にかはわからないけれど。こないだ筑紫さんが無くなってしまった事に関係があるのかもしれないけれど。
とにかく、すごかった。内容が。大きく言えば、考えさせられたのは、次の点かな。
国家と外交。戦争の惨さ及び今の時代。ジャーナリストの意義。
国家的な視点に立ち、今何をすべきか、何が正しいのかをみると。
当時のアメリカの大統領は、もちろん自国の幸せを優先していた訳で。自分たちから仕掛けないと、相手に何をされるかわからない。そして大きな国家力の対立関係のなか、自分たちの強さをアピールすることも価値としてあったんだろう。その結果、様々な意見を経て結局原爆投下に踏み切った。
当然日本でも、それくらいの感情でアメリカを見ていただろうし、力さえあればやりかねないかもしれなかったわけで。
でも、結果生み出された「リアル」は想像を絶する惨さだった。皮膚がただれる、あらゆるところから流血する。そんな姿を自分はこの生きた四半世紀のうちに目の当たりにした事はない。気付かないうちに作られた出来上がった都市で、成熟した都市で、楽しみだけを享受し、楽しく無ければ文句をたれ。また、それ以上の楽しみを生み出すために、今後社会をどうしたいと考える。切迫感なんてあったもんじゃない。「リアル」には感じ取れない。
映像の力、真実を後世に伝える事の意味・意義。
自分たちでは感じ得ない痛みをより痛々しく、生々しく伝える。理論的にも感情的にも訴えかける。そしてその表現力。どれをとっても、すごくできた番組としか言いようがない。そういうことに制作する力を注ぎ込めるということはなんて良い事なんだろう。
って、考えると、自分が今やっている論文を書く行為だって、一体何のためなのか。よく分かんなくなってくる。もちろん、それは早めに解除されて、今そんな事を考えている場合じゃないと、意識を取り戻すのだけれど。
人の向上心と言うべきか、飽くなき探究心と言うべきか、より良い幸せを求め続けるしっていう流れのなかで今を生きていはいるけれど。それが正しいとはわからないままに、それでも何もしないよりはした方が良いと思いながら生きてはいるけれど。精一杯何かをする事は真だと思い、できる限り死力を尽くして、誰かのためになると信じて、今を生きてるし、自分の力を精一杯使っているけれど。
そこで使う死力を尽くすだなんて言葉、あんな番組を見たあとじゃ、そう簡単には言葉に出せないや。なんて小さい、なんて欺瞞。そんな風に思えてくる。
でも、過去に学ぶ事は悪く無い。そこで何かを行動に起こす事は悪く無い。
過去から学び、いい価値観だけを自分に取り込んで、今を死力とは言わずとも、出来るだけ精一杯
頑張るしかない。そう思う。
季節外れだが、当時を想って今更ながらだけど、冥福を祈りたい。
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いよいよ、修士論文。終わりを迎えそうだ。
時間的には厳しい。計画はもちろんしていたけれど、そもそも、最後がいつだかぼんやりとしか知らなくて、いつの間にか、もうすぐ終わりだと知らされた感じ。10日くらい誤算だった。
とはいえ終わらすしかない。
タイトルは
都市部における多目的レンタルスペースの役割と有効性に関する研究
間違いなく、今まで誰も手を付けていない。実態は明らかになっていない。
こういうのを見つけたかった。
結論までを600字で表すとこんな感じ。
もっと面白くなります、あと数日で。
論文要旨
近年、一般賃貸と比較して敷金・礼金・保証金等の煩雑なことを必要とせず、必要日数のみ利用可能な短期賃貸住宅が広く普及する一方で、同システムで住宅以外のレンタルスペース(以下RSとする)と呼ばれる施設も増加している。しかし、RSの実態や有効性に関して調査研究したものは今まで報告されていない。そこで、本研究ではこのRSが持つ役割と有効性に関して①既存ストックの有効活用②衰退中心市街地のにぎわい創出機能③地域コミュニティ基盤形成のための趣味を通じた交流の場という仮説のもと、都市部RSの事例調査を通じて、RSの種類、利用実態、運営形態、立地性等を明らかにすること、さらに先述の仮説を検証し、今後の発展可能性に関する知見を得ることを目的としている。調査方法は、主にWEB上電話帳を参照し選定した東京都と千葉県のRS事業者へのアンケートと、その結果を元に都市部/都市近郊部の商業/住宅エリアに分類した各4事例に対しヒアリング調査を行った。その結果、RSの半数以上が既存ストックを活用するも単独事業として経営が困難である実態や、民間主体でも都市近郊部へ行くほど地域貢献意向が強い傾向にあり、一部地域では地域の重要な交流拠点化していることなどが明らかになった。また事業者の趣味嗜好性がRS開始動機や維持管理に重要な要素であることが明らかとなった。また今後は持続発展させるためには運営プログラムの改善が課題である。
時間的には厳しい。計画はもちろんしていたけれど、そもそも、最後がいつだかぼんやりとしか知らなくて、いつの間にか、もうすぐ終わりだと知らされた感じ。10日くらい誤算だった。
とはいえ終わらすしかない。
タイトルは
都市部における多目的レンタルスペースの役割と有効性に関する研究
間違いなく、今まで誰も手を付けていない。実態は明らかになっていない。
こういうのを見つけたかった。
結論までを600字で表すとこんな感じ。
もっと面白くなります、あと数日で。
論文要旨
近年、一般賃貸と比較して敷金・礼金・保証金等の煩雑なことを必要とせず、必要日数のみ利用可能な短期賃貸住宅が広く普及する一方で、同システムで住宅以外のレンタルスペース(以下RSとする)と呼ばれる施設も増加している。しかし、RSの実態や有効性に関して調査研究したものは今まで報告されていない。そこで、本研究ではこのRSが持つ役割と有効性に関して①既存ストックの有効活用②衰退中心市街地のにぎわい創出機能③地域コミュニティ基盤形成のための趣味を通じた交流の場という仮説のもと、都市部RSの事例調査を通じて、RSの種類、利用実態、運営形態、立地性等を明らかにすること、さらに先述の仮説を検証し、今後の発展可能性に関する知見を得ることを目的としている。調査方法は、主にWEB上電話帳を参照し選定した東京都と千葉県のRS事業者へのアンケートと、その結果を元に都市部/都市近郊部の商業/住宅エリアに分類した各4事例に対しヒアリング調査を行った。その結果、RSの半数以上が既存ストックを活用するも単独事業として経営が困難である実態や、民間主体でも都市近郊部へ行くほど地域貢献意向が強い傾向にあり、一部地域では地域の重要な交流拠点化していることなどが明らかになった。また事業者の趣味嗜好性がRS開始動機や維持管理に重要な要素であることが明らかとなった。また今後は持続発展させるためには運営プログラムの改善が課題である。
思えば、この言葉が常に自分の行動指針だった。
小さい頃、ソフトボールをしていた。
毎週日曜日、地元の少年野球団のようなもので、僕らの場所ではソフトボールだった。
月に何度かある他球団との対抗戦で負けたときに、応援で来ていたみんなの親集団に言われた事が今でも記憶に残っている。「あんたら負けても全然悔しくなさそうだもんね」
そうなんだ、実際、あまり悔しい思いを感じた事がなかった。当時、おれはキャッチャーをやっていたんだけど、もちろん精一杯で。バッターの立ち位置、前打席での成績、ピッチャーの得意玉を考えて、目一杯サインを出し、目一杯声を張り、目一杯ストライクのアピールをする。でも結果試合に負ける。それでも正直あまり応えてはいなかったんだ。
気付いたのは、大学1年生。自分にも負けたら悔しい事があった。ようやっと見つけた気分だった。
それが大学の設計課題。
実際にあるフィールドを与えられ、そこに街歩きをし、自分なりに問題点を分析し、一つの解決策を出す。そしてそれを見事なプレゼンテーションで吐き出す。
目一杯五感を使って、雰囲気、空気、におい、人、まちを感じ取る。
目一杯頭を使って、どうすれば人が幸せになれるか、まちは活気づくかを考える。
プレゼンテーションに必要な資料集め、資料作成に必要なパソコン技術、周りを牽制しながら、常に半歩前を目指してきたような気がする。
迎えたプレゼンテーション。
甘かった、周りはもっとクリエイティブで、きれいなプレゼンで、納得のいく理論で。発表の佇まいも、緊張を感じさせない、余裕すらある人たちだらけ。悔しかった。こんなにも悔しい思いを感じる事があるのかと、少し自分に感心もした。
これは大学の悔しい経験のうちのたった一つ。
振り返ってみると。小学校でも、中学校でも高校でも、勉強頑張って来てたなぁ。常に半歩前を行く。そうすれば、自ずと結果は付いて来た。ただ、それはただの負けず嫌い一心だったんだ。
そうだとは気付いていなかったんだ、大学生になるまでずっと。
今でも”半歩先を行く”精神は失っていない。
もう少し付け加えると。自分が経験主義者であることも大きい。目上の人を敬うのは当たり前。おれよりも数年多く経験をしているわけで。考える時間は自分より多くもっていたわけだ。悩み苦しみ、今がある訳だ。自分から見れば既に、一歩は前に出てる。同い年には負けたく無い。同じ時を過ごして来た人たちだから、負ければ、自分の経験の未熟さを認める事になる。だから、”半歩先”を行く、経験を求めて、がむしゃらに動き回ってた。
所詮クダラナイプライドかもしれない。でもそうやって来た事で、ここまで頑張ってこれた気がする。
これからも”半歩先を行く”精神は失いたくない。
小さい頃、ソフトボールをしていた。
毎週日曜日、地元の少年野球団のようなもので、僕らの場所ではソフトボールだった。
月に何度かある他球団との対抗戦で負けたときに、応援で来ていたみんなの親集団に言われた事が今でも記憶に残っている。「あんたら負けても全然悔しくなさそうだもんね」
そうなんだ、実際、あまり悔しい思いを感じた事がなかった。当時、おれはキャッチャーをやっていたんだけど、もちろん精一杯で。バッターの立ち位置、前打席での成績、ピッチャーの得意玉を考えて、目一杯サインを出し、目一杯声を張り、目一杯ストライクのアピールをする。でも結果試合に負ける。それでも正直あまり応えてはいなかったんだ。
気付いたのは、大学1年生。自分にも負けたら悔しい事があった。ようやっと見つけた気分だった。
それが大学の設計課題。
実際にあるフィールドを与えられ、そこに街歩きをし、自分なりに問題点を分析し、一つの解決策を出す。そしてそれを見事なプレゼンテーションで吐き出す。
目一杯五感を使って、雰囲気、空気、におい、人、まちを感じ取る。
目一杯頭を使って、どうすれば人が幸せになれるか、まちは活気づくかを考える。
プレゼンテーションに必要な資料集め、資料作成に必要なパソコン技術、周りを牽制しながら、常に半歩前を目指してきたような気がする。
迎えたプレゼンテーション。
甘かった、周りはもっとクリエイティブで、きれいなプレゼンで、納得のいく理論で。発表の佇まいも、緊張を感じさせない、余裕すらある人たちだらけ。悔しかった。こんなにも悔しい思いを感じる事があるのかと、少し自分に感心もした。
これは大学の悔しい経験のうちのたった一つ。
振り返ってみると。小学校でも、中学校でも高校でも、勉強頑張って来てたなぁ。常に半歩前を行く。そうすれば、自ずと結果は付いて来た。ただ、それはただの負けず嫌い一心だったんだ。
そうだとは気付いていなかったんだ、大学生になるまでずっと。
今でも”半歩先を行く”精神は失っていない。
もう少し付け加えると。自分が経験主義者であることも大きい。目上の人を敬うのは当たり前。おれよりも数年多く経験をしているわけで。考える時間は自分より多くもっていたわけだ。悩み苦しみ、今がある訳だ。自分から見れば既に、一歩は前に出てる。同い年には負けたく無い。同じ時を過ごして来た人たちだから、負ければ、自分の経験の未熟さを認める事になる。だから、”半歩先”を行く、経験を求めて、がむしゃらに動き回ってた。
所詮クダラナイプライドかもしれない。でもそうやって来た事で、ここまで頑張ってこれた気がする。
これからも”半歩先を行く”精神は失いたくない。