人生とは切り口を見いだすことである。
すなわち意味を探す旅だ。
間違う事だってある。
それでも自分で物事を切り取り、判断し、進んでいかないと行けない。
人生を振り返るとそこにあるのは独自に切り開いて来た、その跡なんだろうと思う。
恥じず、めげず、果敢に物事を見いだしていきたい。
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今は多様な価値観が認められた時代。
それは間違いない。
自分も当然、十人十色だと思ってるし、価値観が違うことは悪いことではないと思うし。だからこそ価値観が似てる人、ないし同じ人に出会えることは奇跡的であるとまで言いたくなる気持ちがある。
そんな中、本当に根っこから価値観が違うなぁと思った人と話す機会があった。
集約すれば「今を考えて楽しい方を選ぶほうが正しい」って感じ。解釈が違ったら申し訳ない…けど。
人間は結局のところ、自分が一番かわいくて、一番尊くて。(当然他人のことは考える)
だから好き勝手、今やりたいことをやればいい。
そしてその楽しいと感じる瞬間を大切にして、その瞬間が繰り返し続くようにすれば、人生は十分に楽しいんだ。
ってな感じでいうんです。確かに確かに。後半の楽しい瞬間を連続させれば、ずっと楽しさが継続するっていう考え方。それは同意見、賛成でした。
ただし、今を考えて楽しい方を選ぶ方が正しいってところは腑に落ちない点があるんです。
極論すると、がまんとかしないほうがいい、言いたいことは言うし、やりたいようにやる。楽しければそれでいいんだ!そんなニュアンスを含む感じでした。
いや、でもおれは考えが違うんです。我慢することは人生の上で必要だし、それが人間を成長させる友思ってたし。
確かに、がまんって行動は精神的にはマイナスを来す気がして。それよりは楽な方を選んだ方がいいとも思うけど。でも、それは自分の中では甘えであり、一つ甘えを許すとだだだーっとその方向に転がってしまう可能性が有ると思ってる。まるで、雪だるま式にね。
その話をするには、もうちょっと深い部分での、人間って、って言う話があって。
人って、楽をしようとしたらとことん何もしないで過ごしちゃうかもしれないと思ってるんです。それは自分が怠け者で、面倒くさがりだから。だからこそはっきりとした自立心をもって精神をコントロールしないといけないと思ってる。そう、やりたいようにやりゃあいいじゃん!本能のままに従えばいいじゃん!ではなく。
そこまで話して、そもそもなんでこんな考えに至ったんだろう、なんでここまで違うんだろうと思った。そしてなんとなく一つの答えにたどり着いたんです。
それは、社会性をどう捉えているか。そして社会を変えようとしているかどうかだと気づいた。
続く…
それは間違いない。
自分も当然、十人十色だと思ってるし、価値観が違うことは悪いことではないと思うし。だからこそ価値観が似てる人、ないし同じ人に出会えることは奇跡的であるとまで言いたくなる気持ちがある。
そんな中、本当に根っこから価値観が違うなぁと思った人と話す機会があった。
集約すれば「今を考えて楽しい方を選ぶほうが正しい」って感じ。解釈が違ったら申し訳ない…けど。
人間は結局のところ、自分が一番かわいくて、一番尊くて。(当然他人のことは考える)
だから好き勝手、今やりたいことをやればいい。
そしてその楽しいと感じる瞬間を大切にして、その瞬間が繰り返し続くようにすれば、人生は十分に楽しいんだ。
ってな感じでいうんです。確かに確かに。後半の楽しい瞬間を連続させれば、ずっと楽しさが継続するっていう考え方。それは同意見、賛成でした。
ただし、今を考えて楽しい方を選ぶ方が正しいってところは腑に落ちない点があるんです。
極論すると、がまんとかしないほうがいい、言いたいことは言うし、やりたいようにやる。楽しければそれでいいんだ!そんなニュアンスを含む感じでした。
いや、でもおれは考えが違うんです。我慢することは人生の上で必要だし、それが人間を成長させる友思ってたし。
確かに、がまんって行動は精神的にはマイナスを来す気がして。それよりは楽な方を選んだ方がいいとも思うけど。でも、それは自分の中では甘えであり、一つ甘えを許すとだだだーっとその方向に転がってしまう可能性が有ると思ってる。まるで、雪だるま式にね。
その話をするには、もうちょっと深い部分での、人間って、って言う話があって。
人って、楽をしようとしたらとことん何もしないで過ごしちゃうかもしれないと思ってるんです。それは自分が怠け者で、面倒くさがりだから。だからこそはっきりとした自立心をもって精神をコントロールしないといけないと思ってる。そう、やりたいようにやりゃあいいじゃん!本能のままに従えばいいじゃん!ではなく。
そこまで話して、そもそもなんでこんな考えに至ったんだろう、なんでここまで違うんだろうと思った。そしてなんとなく一つの答えにたどり着いたんです。
それは、社会性をどう捉えているか。そして社会を変えようとしているかどうかだと気づいた。
続く…
はい、続き。
社会性をどう捉えるか、これに関して極端だけど例を思い付いたので、それを紹介。
例えば10人の村に住んでいるとしよう。(どっかで聞いた話ですね笑)
それぞれ個人が今を楽しく生きている10人が揃った村。
自由です、今が楽しきゃそれでいいじゃん。何でも搾取して、時間を自由に伸び伸び使って。
本能に任せて、したいように食べて寝て、性欲さえも満たす。10人それぞれそのままに。
だとします。
でもきっと誰か気づくはず。「このままでおれら大丈夫?」
周辺の食料は枯渇し、生産性を失い、遊びも尽くしたかもしれない。さてどうする。
全員が気を変えずに遊び尽くして、楽しいままに滅び行く、それもあるかもしれない。
でも、そのうちの誰かが、全体を、行く末を見据えて、話し合いの場を持つかもしれない。
なんか、過去有りましたよね。心理効果を図る実験で。
囚人20人のうち、10人は奴隷役、10人は監察役にしたところ、その役割をそれぞれが演じ始めたって云う実験結果。
そんな風に、もしかしたら村の数人にはそういう意識改革が行われるかもしれない。
そうして集団でいる”社会”を作ろうと思うと、少しやり方を変化しないといけないことに気づくわけで。全体バランス、持続性を見た上で、日々の生活を逆算しないといけなくなるわけで。
どうだろう、極端かな…。
この話をもう少しのばすと、つまり楽しく生きてりゃいいじゃん!を高らかに云うことには、代償が有るわけです。そしてそれは先の例の10人という数なら自分に降りかかりやすく、わかりやすいけど。何百万もが集まった場所や都市では、極端に見づらい!
だからこそ、一つ一つを丁寧に、ちゃんと考えて、楽しいだけじゃない道を選ぶことが必要なんだと思う。ってことをおれは思ってる。
そして、
楽しく生きればいいじゃん系の10人が暮らす村よりも、
楽しいけど、全体のことを全員が考えて生きていく気持ちを本気で持つ10人が暮らす村だったら、
前者の村は無くなるかもしれないが、後者の村は無くならないと思う。
そしてこの村を日本という言葉に言い換えると、
楽しく生きればいいじゃん系の1億人が暮らす日本よりも、
楽しいけど、全体のことを全員が考えて生きていく気持ちを本気で持つ1億人が暮らす日本だったら、
前者の日本は無くなるかもしれないが、後者の日本は無くならないと思う。
それくらい拡大した上で、自分の行動を振り返るくらいの気持ちがあってしかるべきではないのか。
とはいえ、この豊かな時代ですよ。何も苦労を選ばなくても楽しいだけを選択して生きれる術があるわけです。でも敢えて言いたい。それでこの国は続くんですかと。次世代を担えるんですかと。生半可な考えで1億3千万人が生きてて続くんですかと。
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